フランス北東部に位置するグラン・テスト地域圏、いわゆるシャンパーニュ地方のマルヌ県の都市ランスに位置する世界遺産。ランスのノートル=ダム大聖堂、通称ランス大聖堂はフランス王国の前身であるフランク王国メロヴィング朝を打ち立てたクローヴィス1世がローマ・カトリックに改宗した場所であり、代々フランス王国の戴冠式が行われた「フランスの象徴」ともいうべき大聖堂だ。また、盛期ゴシック建築の最高傑作のひとつに数えられ、ドイツ・ゴシックをはじめ後のゴシック建築に多大な影響を与えた。クローヴィス1世の洗礼を担当したのが後に列聖されてフランスの守護聖人となる司教のレミギウス(聖レミ/聖レミギウス/サン=レミ)で、彼が眠る教会堂がサン=レミ旧大修道院のサン=レミ・バジリカ(サン=レミ聖堂。バシリカはローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の教会堂。教皇から指定された特別な教会堂を示すこともある)だ。また、トー宮殿はランス大司教が暮らす司教宮殿であり、フランス王が戴冠式前後に過ごした場所でもある。
なお、ランスには世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」の構成資産が点在しており、本遺産と一部隣接しているが重なってはいない。
ローマ以前の時代、ランス周辺はケルト系ガリア人のレミ族の支配地域であり、ドゥロコルトルムという町があった。紀元前1世紀に共和政ローマのカエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル/シーザー)がこの地を支配すると、民族名の「レミ」がなまって「ランス」と呼ばれるようになったようだ。
3世紀にキリスト教が伝わり、最初の司教であるランスのシクストス(聖シクストス)が教会堂を建設したと伝わっている。5世紀はじめに司教ニケーズがノートル=ダム(我らの貴婦人)、つまり聖母マリアに捧げる55×20mほどのバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)の大聖堂を建設し、その北に洗礼堂を設置した。ニケーズはローマ時代のヴィッラ(別荘・別邸)に居住し、ここを司教宮殿とした。
476年に西ローマ帝国が滅亡すると、ゲルマン系フランク人であるクローヴィス1世がフランク諸国を統一し、481年にフランク王国メロヴィング朝を建国してクローヴィス1世として王位に就いた。妻にめとったクロティルダはキリスト教ローマ・カトリックのアタナシウス派の敬虔な信者で、貧者や孤児の救済などに尽力して後に列聖(徳と聖性を認めて聖人の地位を与えること)されるほどの人物だった。彼女の説得もあり、異教徒だったクローヴィス1世はゲルマン人君主としてはじめてローマ・カトリックに改宗した。このとき洗礼を施したのが当時の司教であるレミギウスで、場所はランスのバシリカ式大聖堂の洗礼堂で、時代は496~499年頃と考えられている。この洗礼に際してレミギウスが持っていたのが「聖アムプラ(アムプラは聖油入れの小瓶)」だ。洗礼では洗礼を受ける者に聖香油を塗油するが、聖アムプラは聖霊によってもたらされた、あるいは中の聖香油が自然に満ちるといった伝説が伝わる聖遺物だ。レミギウスは533年に亡くなると、聖クリストフォロスに捧げられた小さな礼拝堂に聖アムプラとともに安置されたという。
8世紀半ばにランスは司教区から大司教区に昇格し、同じ頃に聖クリストフォロス礼拝堂の立つ場所に王立のサン=レミ大修道院が創設された。これをベネディクト会が引き継ぎ、ランス大司教が修道院長を兼任した。聖クリストフォロス礼拝堂は9・10世紀に改築されて修道院教会となり、1049年に教皇レオ9世によってロマネスク様式のサン=レミ・バジリカが奉献された。この時代に司教宮殿も大幅に拡大され、「T(ギリシア語で「タウ」)」字形の平面プランからトー宮殿と呼ばれるようになった。聖クリストフォロス礼拝堂やサン=レミ・バジリカはランス大司教の墓所だったが、フランク王や西フランク王の埋葬地としても使用され、カルロマン1世やルイ4世、ロテールらの石棺が収められた。
8世紀はじめ、ピレネー山脈を越えてガリア(ライン川からピレネー山脈、イタリア北部に至る地域。おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる)に侵入したウマイヤ朝(イスラム帝国)に対し、フランク王国は732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで打ち破り、キリスト教諸国の救世主としてヨーロッパに覇を唱えた。この戦いで指揮を執った宮宰カール・マルテルの息子ピピン3世(小ピピン)が王位に就いてカロリング朝が成立。その息子カールは800年に教皇レオ3世からローマ帝国の帝冠を授かり、カール大帝として皇帝に即位した(カールの戴冠)。
カール大帝の息子ルートヴィヒ1世(ルイ1世/ルイ敬虔王)は813年にアーヘン大聖堂(世界遺産)で父帝とともに共同皇帝となり、816年にはランスのノートル=ダム大聖堂で戴冠式を行って教皇ステファヌス4世から帝冠を授かった。これによりノートル=ダム大聖堂は戴冠式が行われた歴史的な場所と認知され、それにふさわしいものになるよう建て替えられた。大聖堂はこの後も増改築を繰り返し、全長110mを誇る巨大なものとなった。
987年にカロリング家が断絶し、ロベール家でパリ伯であるユーグ・カペーが王位に就いてカペー朝が成立した。この際、ユーグ・カペーは世襲を印象付けるために息子ロベールを共同統治の国王としてノワイヨンで戴冠させ、父王が死去した996年にロベール2世として正式に即位した。同様に、ロベール2世は息子アンリに1027年にランスのノートル=ダム大聖堂で戴冠させ、父王の死後の1031年にアンリ1世として即位した。これを機にノートル=ダム大聖堂でフランス王の戴冠式を行う伝統が確立され、19世紀まで継続された。また、1131年のルイ7世の戴冠式において教皇インノケンティウス2世が聖レミギウスの石棺から発見されたという聖アムプラを使用して塗油を行い、サン=レミ大修道院に保管した。こうして聖アムプラの使用も戴冠式の伝統となった。
ノートル=ダム大聖堂は12世紀に初期ゴシック様式の改修を受けたが、1210年の火災で多くが焼失した。翌年1211年に再建が開始され、内陣は13世紀半ばまでに完成したが、バラ窓は1270~80年代、身廊は1290年代にようやく竣工を迎え、百年戦争(1337〜1453年)や内乱などもあって西ファサードの塔や装飾の完成は15世紀までずれ込んだ。ゴシック様式は12世紀にパリ周辺のイル=ド=フランス地方で誕生し、パリ郊外のサン=ドニ大聖堂やパリのノートル=ダム大聖堂(世界遺産)、シャルトル大聖堂(シャルトルのノートル=ダム大聖堂。世界遺産)で確立されたが、ランスのノートル=ダム大聖堂にはそれらに導入された革新的な技術が集約された。また、1210年の火災でトー宮殿も被害を受け、13世紀前半にゴシック様式のパラティン礼拝堂が建設された。12~13世紀にはサン=レミ大修道院やサン=レミ・バジリカでもゴシック様式への改築が進んだ。
フランスとイングランドが戦った百年戦争において、フランスは首都パリも落とされて存亡の機を迎えたが、1429年のオルレアン包囲戦におけるジャンヌ・ダルクの反攻からフランスの逆転劇が開始され、同年中にフランス北部の多くが解放された。この流れの中でジャンヌ・ダルクがランスを奪還すると、同年7月にシャルル7世の戴冠式が挙行され、伝統に則ってノートル=ダム大聖堂で聖アムプラを使用して行われた。これはイングランド王とフランス王を兼ねるヘンリー6世の王位継承を否定するものであり、シャルル7世こそ唯一のフランス王であることを印象付けた。百年戦争によりノートル=ダム大聖堂はいっそう権威を強めたが、一方でサン=レミ大修道院は衰退した。トー宮殿については15世紀末から16世紀初頭にゴシック様式で再建され、17世紀後半には王室建築家ロベール・ド・コットによって外装がバロック様式に改装された。
1789年にはじまるフランス革命期、ノートル=ダム大聖堂は閉鎖され、1793年にローマ・カトリックの信仰が禁止されると無宗教の「理性の神殿」となり、聖アムプラも割られてしまった。彫刻や家具類は略奪され、鐘楼の鐘のような金属は大砲を作るために接収されたが、建物やステンドグラス・宝物は多くが被害を免れた。ナポレオン1世がローマ・カトリックの信仰を復活させ、1825年にはノートル=ダム大聖堂でシャルル10世の戴冠式が行われたが、これが最後のフランス王戴冠式となった。19世紀半ばから大聖堂の修復がはじまり、1860年前後にはモニュメント修復の第一人者である建築家ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクも参加した。修復は以降も多くの建築家の助けを得て進められた。
サン=レミ大修道院はフランス革命前、1774年の大火でほぼ焼失し、サン=レミ・バジリカも被害を受けた。サン=レミ・バジリカはフランス革命後の略奪を受け、家具類が持ち去られた。1790年に修道院は廃院となり、残った建物は兵舎や軍事病院として使用され、1827年には「神の家」を意味する病院のオテル=デューに改装された。一方、サン=レミ・バジリカは修道院の手を離れて教区教会として修復され、聖レミギウスの墓が再建された。また、トー宮殿も接収されて国有財産となり、裁判所や刑務所・証券取引所などとして使用された。1823年に大司教が戻り、1825年にシャルル10世の戴冠式が行われたが、式に際してゴシック・リバイバル様式による改修を受けた。その後は公共施設となり、大学や博物館といった文化施設となった。1870~71年のプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)後、ドイツ皇帝となったヴィルヘルム1世が滞在している。
第1次世界大戦(1914~18年)で大きな被害を受け、特にノートル=ダム大聖堂は1914年のドイツ軍による数百発の砲撃や空爆によって天井と屋根が倒壊し、彫刻やステンドグラスの多くが破壊された。これはフランスの戦意を挫くためにフランスの象徴を意図的に破壊したものといわれている。ランスの町の多くが破壊される中で、サン=レミ・バジリカやトー宮殿も著しく損傷した。戦後まもなくランス出身の建築家アンリ・ドゥヌーによる修復・再建が開始され、工事は1938年まで続けられた。被害は大きかったが、これによりゴシック様式の構造が明らかになり、カロリング朝期の遺構が発見されるなど、建築と歴史の解明に貢献するものとなった。
世界遺産の構成資産は2件で、「ランスのノートル=ダム大聖堂、トー宮殿」と「サン=レミ旧大修道院」となっている。
ランスのノートル=ダム大聖堂は「†」形のラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂で、平面149×61m、身廊の高さ38m、西ファサードの双塔は81.5m、アプス(後陣)に設置されたフレッシュ(屋根に設置されたゴシック様式の尖塔。スパイアの一種)は地上高87mを誇る。大きさに関して、イル=ド=フランス地方で確立されたゴシック建築を代表するパリのノートル=ダム大聖堂やシャルトル大聖堂を凌駕し、アミアン大聖堂(アミアンのノートル=ダム大聖堂。世界遺産)と同規模となっている。この時代以降、ケルン大聖堂(世界遺産)をはじめドイツではこれ以上のゴシック建築が建設されるが、そうしたドイツ・ゴシックの模範となった。東にアプス、西・南・北に装飾されたファサード(正面)を持ち、西に双塔がそびえるウェストワーク(教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)を掲げている。ただ、十字の縦軸は夏至の日の出の方向を向いているため東からは多少ズレている。建物は数々のバットレス(控え壁)や二重のフライング・バットレス(飛び梁。横に飛び出したアーチ状の支え)で支えられており、上層はピナクル(ゴシック様式の小尖塔)やガーゴイル(悪魔や怪物を象った雨樋)で装飾されている。圧巻はウェストワークの西ファサードで、頂部にそびえる双塔、その下にクローヴィス1世や王妃クロティルダ、聖レミギウスを含む56の彫像が並ぶ王のギャラリー、さらに下にバラ窓とランセット窓、最下層に扉がない2基を含めて5基のポータルが並んでいる。いずれも見事なゴシック装飾が施されており、特にポータルはリンテル(まぐさ石。柱と柱、壁と壁の間に水平に渡した石)、アーキヴォールト(アーチ部分の迫縁装飾)、柱、壁面が彫刻で埋め尽くされている。特徴的なのがティンパヌム(タンパン。門の上の彫刻装飾)の代わりにはめ込まれたステンドグラスで、特に中央ポータルにはバラ窓が設置されており、西ファサードの上下にバラ窓が並ぶ独創的なデザインとなっている。また、アーキヴォールトの上にも彫像が設けられており、中央ポータルの上部には聖母マリアの戴冠を描いた見事な彫刻群が掲げられている。北ファサードはこれほどではないが、やはり美しいバラ窓や彫刻で飾られており、ポータルには彫刻で覆われたリンテル、アーキヴォールト、ティンパヌムが見られる。南ファサードにポータルは存在しないが、やはりバラ窓やランセット窓で彩られている。教会堂は全長に比べて幅が狭く、尖頭アーチ(頂部が尖ったアーチ)や交差四分のリブ・ヴォールト(枠=リブが付いた×形のヴォールト)といった尖ったデザインも相まって高さが強調されている。身廊はアーケード(下層のアーチ部分)、トリフォリウム(側廊の屋根裏部分)、クリアストーリー(高窓)の3層構造で、初期ゴシックの4層構造と比較してアーケードとクリアストーリーが大きく取られており、上昇感を強調しつつ、スペースを活かして大きなステンドグラスがはめ込まれている。ステンドグラスにはトレーサリー(窓の骨組状の飾り)が多用されており、装飾であると同時に荷重を支える柱の役割を果たすことでステンドグラスの面積を拡張することができた。ステンドグラスは13世紀のものが多く残されており、シャルトル大聖堂に勝るとも劣らないフランス屈指の美しさで知られる。新しいものでは1974年に設置された画家マルク・シャガールによるステンドグラスがよく知られている。内部にはヨハネ礼拝堂、ヨセフ礼拝堂、聖心礼拝堂など多数の礼拝堂があり、時代時代の装飾で飾られている。アプスには聖母マリアに捧げられた主祭壇を取り囲むように周歩廊が巡っており、周歩廊の外側には5基の放射状祭室が立ち並んでいる。アプスのジャンヌ・ダルク像はシャルル7世の戴冠式で本人が立っていた場所に置かれている。
トー宮殿はノートル=ダム大聖堂の南に隣接して立つ「T」字形の建物で、司教の住居である司教宮殿として建設され、戴冠式に際しては国王の御座所や宴会場として使用された。現在の建物は15世紀末から16世紀初頭にゴシック様式で再建されたもので、17世紀後半に外観がロベール・ド・コットによってバロック様式で改装され、19世紀にゴシック・リバイバル様式で改修された。宮殿には多くの部屋があり、王家の礼拝堂であり聖アムプラを収めた聖遺物箱や聖レミギウスの聖杯などの宝物を収蔵する上部礼拝堂(パラティン礼拝堂)、13世紀までさかのぼる下部礼拝堂、宴会場となっていた饗宴のサル(トーのサル。サルは部屋・広間)、シャルル10世が戴冠式で使用したシャルル10世のサル、13世紀の作品であるゴリアテ像をはじめ数々の彫刻が置かれたゴリアテのサル、第1次世界大戦で破壊された彫刻などを収める小さな彫刻のサル、ノートル=ダム大聖堂の西ファサードの中央ポータルの彫刻である聖母戴冠のオリジナルや聖母に関するタペストリーなどを収蔵した聖母戴冠のサル、同様に大聖堂西ファサードの彫刻のオリジナルやタペストリーを収めたサロン・カレなどがあり、一部は大聖堂博物館として公開されている。
サン=レミ旧大修道院は1774年の大火でほとんど焼失し、フランス革命期の1790年に廃院となった。その後、修道院教会から教区教会となったサン=レミ・バジリカや修道院のクロイスター(中庭を取り囲む回廊)、チャプター・ハウス(会議室・集会所)などが修復された。聖レミギウスの墓の上に立つサン=レミ・バジリカはラテン十字式・三廊式の教会堂で、平面126×58mを誇る。1049年に奉献されたロマネスク様式の構造をベースとし、12~13世紀に身廊やトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)などを除いてゴシック様式で改装された。フランス革命や第1次世界大戦で大きな被害を受けたが、アプスを彩る12世紀のステンドグラスをはじめ歴史的な建築や装飾も少なくない。クワイヤに収められた聖レミギウスの墓は19世紀に再建されたもので、各所にルイ14世やロテールをはじめフランク王や西フランク王、ランス大司教の墓が収められている。
ランスのノートル=ダム大聖堂は13世紀の新しく際立った建築技術と、建築と彫刻装飾の調和によって、ゴシック芸術の傑作であるといえる。
これらの建造物群の建築と彫刻の完成度はその後のヨーロッパの建築物に多大な影響を与えた。
大聖堂、司教宮殿、サン=レミ旧大修道院はフランス王政の歴史はもちろん、フランスの歴史に直接結び付いている。戴冠式が行われたこれらの場所において公的な権威と神聖な役割のバランスが調整されたが、こうしたフランス王室の機能はヨーロッパにおいて政治的な模範とされた。
ランスの大聖堂、トー宮殿、サン=レミ大修道院の全体が戴冠式の場を構成している。これらの建築物の一部は第1次世界大戦で大きな被害を受けて大規模な修復が行われたが、現在でも戴冠の儀式や地理的条件を表現し、想起させている。そしてまた、大聖堂の彫刻やステンドグラスがいまでもこの祝典の様子を証言している。これらの建造物群は13世紀の複合的な中世都市構造の一部であり、古代の道路網の痕跡をも見定めることができる。戦後再建された折衷的な建造物や現代的な建造物、修復された古い建造物がこれらのモニュメントを取り巻く周辺環境を特徴付けている。
ランスのノートル=ダム大聖堂の歴史は13世紀から鉄筋コンクリートを採用した第1次世界大戦後の修復まで8世紀にわたる技術的・芸術的革新の歴史である。大聖堂は不運にもオリジナルのステンドグラスの一部を失ったものの、ゴシック様式のステンドグラスのもっともすぐれた作品例のいくつかを引き継いでいる。この遺産を保護するために国はステンドグラスの修復と制作支援の二重の政策を採っており、これにより中世のステンドグラスのいくつかはかつての輝きを取り戻した。同時に、マルク・シャガールのような著名な芸術家らがこの大聖堂で活動を行い、作品を残している。
トー宮殿の名で知られる最初の司教宮殿は宗教儀式の点で重要な役割を果たし、17世紀にほぼ全面的に再建された。フランス革命で聖アムプラが破壊されたことで戴冠式の伝統は中止され、1825年に一度だけ再開されたシャルル10世の戴冠式が最後となった。今日まで幾度もの修復が行われる中で、建造物の真正性を尊重した技術革新が実践されている。