ブルガリア中部、スタラ・ザゴラ州の町カザンラク郊外に位置する蜂窩状墳墓(ほうかじょうふんぼ。コーベル・ドームを使用した玄室を持つ蜂の巣状の墳墓)で、紀元前4世紀にトラキア人のオドリュサイ王国の首都であるセウトポリス近郊に国王ロイゴスによって築かれたと見られている。ヘレニズム時代(紀元前323~前30年)のトラキア人の文化を伝えるきわめて貴重な遺跡であり、コーベル・ドーム(コーベル・アーチ=持送りアーチを回転させたドーム)建築やフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)はトラキアの文化レベルの高さを示している。
なお、世界遺産リストに登載されているトラキア人の墳墓には他に「スヴェシュタリのトラキア人の墳墓」がある。
バルカン半島南東部、ヨーロッパとアジアを結ぶダーダネルス海峡とボスポラス海峡辺りから北の一帯をトラキア地方という。紀元前4000~前3000年頃にトラキア人がこの地に定住をはじめたようだが、先史時代の歴史については史料が少なく、詳細は伝わっていない。トラキア人はホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』やヘロドトスの『歴史』といったギリシアの叙事詩や歴史書に登場し、トラキア地方を拠点に大きな勢力を誇っていたことが記されている。
トラキアの地は要衝としてさまざまな勢力に狙われ、ギリシアの諸ポリス(ギリシア都市国家)やペルシアのアケメネス朝、スキタイ人、ケルト人、ローマ人などの圧力にさらされた。紀元前480~前460年頃、部族ごとに分かれていたトラキア人は一体となって国王テレス1世を立て、初の統一国家となるオドリュサイ王国を建国した。
しかし、紀元前4世紀に入るとマケドニア王フィリッポス2世がギリシアを統一し、紀元前350年頃にトラキアに侵攻して大部分を属国とした。紀元前336年にフィリッポス2世が暗殺されるとアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)が王位を継ぎ、紀元前323年に死去するとリュシマコスがトラキアや小アジア(現在トルコのあるアナトリア半島周辺)を支配した。この時代のオドリュサイ王セウテス3世は難しい舵取りを迫られ、形的に従属しつつも独立を貫き、時に戦争を行った。
セウテス3世は王であると同時に神官でもあり、トラキア人の最高位聖職者だったともいわれる。紀元前325~前315年頃、ロゾヴァ渓谷(バラの谷)に首都セウトポリスを建設し、中心となる王宮と神殿を築いた。貴族や上流階級層は周辺に死者を祀るためのネクロポリスを造って墓を建てた。墓の数は千超にもなることから「トラキア支配者の谷」とも呼ばれている。その中でセウトポリスの南8kmほどに建設されたのがオドリュサイ王ロイゴスの墳墓と見られるカザンラクのネクロポリスだ。ロイゴスはセウテス3世の息子あるいは孫・曽孫と考えられているが、ハッキリしない。
セウトポリスは紀元前3世紀はじめまで首都として機能していたようだが、ケルト人の襲撃を受けて荒廃し、やがて放棄された。紀元前2世紀になると多くの地方が独立し、紀元前1世紀には王国は共和政ローマの下に入った。
カザンラクのネクロポリスは第2次世界大戦中の1944年に防空壕を掘っていた兵士によって偶然発見された。
世界遺産の資産として蜂窩状墳墓と周辺の丘が地域で登録されている。墳墓が含まれている丘は直径7m・高さ40mほどで、発見以前は自然の丘と見られていた。
墳墓は南に入口があり、直線上に前室-羨道-玄室の3室が並んでいる。前室は全長2.60m・幅1.84mで、岩や石が粗っぽく積み上げられている。羨道は全長1.96m・幅1.12m・高さ2.25mで、整形された切石とレンガで築かれている。天井は三角形で、石を内側に少しずつ張り出させて中央付近で接続するコーベル・アーチ(持送りアーチ/疑似アーチ)だ。壁や天井はモルタル(セメントに水と砂を加えて練り混ぜたもの)で覆われ、赤・白・黒のボーダー柄に彩色されており、一部にフレスコ画が見られる。
中心をなす玄室は直径2.65m・高さ3.25mの半球形で、コーベル・アーチを回転させたコーベル・ドームとなっている。一説ではミケーネのアトレウスの宝庫(世界遺産)をはじめとするエーゲ文明の蜂窩状墳墓を参考にしたものとされる。玄室の壁面下部はやはり赤・白・黒のボーダー柄だ。
特筆すべきが玄室のドーム天井のフレスコ画だ。主題は諸説あるが、葬儀の饗宴とする説が有力視されている。目立つのは椅子に座ったふたりの貴族で、月桂冠(ゲッケイジュで編んだ葉冠)を冠しているのが王、ティアラとベールを被っているのが王妃で、告別の様子を描いたものと見られている。周囲の従者は食事や贈り物を持っており、テーブルにはごちそうが並べられている。また、音楽家が楽器を演奏し、戦士がウマや戦車を操っている。ひとりの女性像は冥界の案内役となる女神と見られ、故人を現世から冥界に導く役割を果たすものであるようだ。これらの内側では3台の戦車が疾駆しており、葬儀の際に開催される戦車競技と考えられている。絵は基本的にモルタルに色を浸透させたフレスコ画だが、一部にテンペラ(顔料に接着剤となるバインダーを混ぜた塗料で描く技法)も使用されている。
墳墓からは男女の遺体をはじめ、アンフォラ(ふたつの持ち手を持つ細長い陶器)や儀式用の器などの陶器、若干の装飾品や服飾品、骨片や木片・釘などが発見されているが、古い時代に盗掘にあったと見られている。
現在、フレスコ画を保護するため空調設備によって内部環境が管理されており、墳墓内部へのアクセスは厳しく制限されている。その代わり、1984年に原寸大のレプリカ墳墓が完成し、博物館としてオープンしている。
カザンラクのトラキア人の墳墓はトラキア人の創造的精神によって制作された最高傑作である。
カザンラクのフレスコ画はトラキアの文化と絵画芸術のレベルの高さを証明するものである。
カザンラクのフレスコ画はヘレニズム時代の葬祭美術の発展における重要な段階を示すものである。
本遺産の完全性は無傷で保たれている。明確化された境界線とバッファー・ゾーン、そして園内における墳墓の配置によって資産は安全な環境下に置かれており、その内部に顕著な普遍的価値を伝えるすべての要素を含んでいる。また、墳墓の近郊にはその建築とフレスコ画を再現したレプリカ墳墓が設けられており、訪問客をこちらに誘導することでその悪影響から免れている。
墳墓は建築や壁面が増改築されることなくオリジナルの状態で伝えられており、フレスコ画もきわめてよい状態で保存されていることから、真正性の要件は満たされている。世界遺産登録に際して墳墓は恒久的に安全が確保された建造物の内部に保護され、一定の気温を保つために空調設備も導入された。これにより主要な文化的価値を構成している高度な壁画装飾は完璧に保存されている。この過程で壁画の洗浄と補強が実施されたが、真正性を損なわない技術が用いられ、修復や追加なども行われなかった。