ベルギー西部エノー州に位置するサントル運河(中央運河)は19世紀のベルギー産業革命を支えたワロン地方の石炭を運搬するために築かれた運河だ。モンスのモンス=コンデ運河とラ・ルヴィエールのブリュッセル=シャルルロワ運河を結ぶ全長20.919kmのうち、1917年の開通時の産業遺産と周辺景観を維持しているラ・ルヴィエールからル・ルーにかけての旧運河部分の6.79kmが資産となっている。特筆すべきは標高差66.19mを埋めるために導入されたウドン=ゴウニー、ウドン=エムリー、ストレピ=ブラックニー、ティウの4基の水圧式ボートリフト(船舶昇降機)で、ボートリフト自体が世界的に希少であるうえに、形状・機能を維持している最古のボートリフト群となっている。
ベルギーのワロン地方や隣接するフランスのノール=パ・ド・カレー地方には「ワロン地方の主要な鉱山遺跡群」「ノール=パ・ド・カレーの炭田地帯」という世界遺産があるように、石炭の世界的な採掘地として知られている。ワロン地方では12世紀にはボリナージュやシャルルロワで有力な炭鉱が発見されていたが、航行可能な大河がなかったため、川まで人力で運ばざるをえなかった。
ベルギーにはフランス北東部からベルギーを経てオランダへ抜ける北のスヘルデ川(エスコー川)と南のマース川(ムース川)というふたつの大河がある。中世から近世にかけてワロン地方西部ではスヘルデ川、東部ではマース川への航路が開拓されたが、十分なものではなかった。たとえばシャルルロワはサンブル川でマース川と結ばれていたが、水量が一定せず、蛇行を繰り返すうえに流れも速かったため航行は困難をきわめた。
ワロン地方が飛躍するのは近代に入ってからだ。産業革命期、石炭やコークス(石炭を蒸し焼きにして抽出した炭素を主成分とする固体燃料)は鉄鉱石から鉄を抽出するための燃料として使用され、蒸気機関が普及するとその燃料としても欠かせぬ資源となった。1830年に独立したベルギーは織物業や金融業が盛んで炭鉱も豊富だったことから、1830年代にイギリスに次ぐ産業革命を開始させた。
石炭需要の急増を受けて運河網が急速に整備された。産業革命直前、1818年にモンス=コンデ運河が完成し、ボリナージュからフランスのコンデを経てスヘルデ川と結ばれた。この運河はフランスのサン=カンタン運河とも通じたことで、パリとも直接接続された。また、1826年にはポムルエル=アントアン運河が開通し、税金の掛かるフランスを回避してスヘルデ川に至るルートが整備された。さらに、ブリュッセルは1561年に完成していたブリュッセル=スヘルデ川海洋運河でスヘルデ川と結ばれていたが、1832年にブリュッセル=シャルルロワ運河が開通してシャルルロワとも接続された。また、1820年代~30年代にかけてサンブル川が運河化されたことでスヘルデ川とマース川も実質的に運河で結ばれた。
こうしてワロン地方の炭鉱地帯は東西とも運河網に組み込まれ、最後に東西を結ぶ運河が待望された。これがモンスのモンス=コンデ運河とラ・ルヴィエールのブリュッセル=シャルルロワ運河を結ぶサントル運河だ。もともとこの運河の計画は1810年にナポレオン1世が承認していたが、技術的・資金的問題によって大幅にずれ込み、イギリスやフランス、ドイツの炭鉱との競争が厳しくなった1871年になってようやくベルギー政府が支援を決定した。
サントル運河の最大の課題は両運河間の89.46mの標高差と少ない水量だった。運河では一般的に標高差を埋めるために閘門(こうもん)が使用されていた。閘門には閘室と呼ばれる水と船を入れるためのスペースがあり、上流と下流に閘門扉(閘室に備えられた水門)を備えている。ふたつの閘門扉を操作することで閘室の水位を上下させ、上流と下流の水位に合わせることができる。しかし、サントル運河では計算上、32もの閘門が必要になり、つねに水で満たしていなければならなった。
ちょうどこの頃イギリスでボートリフトが開発されていた。そして1875年にエンジニアであるエドウィン・クラークが設計したアンダートン・ボートリフトが完成し、トレント・マージー運河でその有効性が実証された。これを受けて標高差の激しいサントル運河の一部に水圧式のボートリフトを採用することが決定された。
水圧式ボートリフトには水と船を入れるケーソン(容器)が2基設置されており、それぞれ鋳鉄製のピストンで支えられている。地下にはそれぞれのピストンを収めるための2基のシリンダーが備わっており、2基はパイプで結ばれて水で満たされている。システムはケーソンの重さの差によって作動し、重いケーソンが下降する一方、水圧を受けて軽いケーソンが上昇する仕組みになっている。これにより大きな標高差を水で満たすことなく船を移動させることができるようになった。
サントル運河は1888年に建設が開始され、遅延を重ねた結果、1917年にようやく開通した。運河は全長20.919kmで、標高差89.46mを4基のボートリフトと6基の閘門で埋めた。この時点で航行可能な船舶は全長40.5m・最大喫水2.1m以下で、最大排水量360tとなっていた。
1957年には最大排水量1,350tの船舶を航行させるために大幅な増改築が決定された。これによりモンスからアヴレまでの運河が拡張され、アヴレに隣接するル・ルーからラ・ルヴィエールにかけては新運河が建設された。1982~2002年に築かれた新運河のストレピ=ティウ・ボートリフトは1基で73.15mの標高差を接続する当時世界最高のボートリフトだった。
商船の運航は旧運河から新運河に移り、旧運河の撤去も検討された。しかし、保存運動が活発化し、主に観光用として運用が続けられることとなった。世界遺産の資産を構成しているのはこの旧運河の区間だ。
世界遺産の資産に指定されているのはティリオ渓谷沿いに伸びるサントル運河の旧運河、ラ・ルヴィエールからル・ルーにかけての6.79kmの区間だ。
運河は堤の上に築かれており、周囲にはアメリカニレ、トネリコ、オーク、ポプラ、カエデ、シカモア、ヤナギ、シラカバ、ハンノキ、ヤナギ、シラカバ、ニセアカシア、ライム、クリといった木々が植林され、泉水式の庭園のような趣を見せている。
開通直後のサントル運河には6基の跳ね橋が架かっていたが、4基が現存しており、資産内に2基が残されている。跳ね橋は橋桁を上げて船を通過させることのできる橋で、橋塔に収められた釣り合い重りとワイヤーを利用して開閉している。資産内には他にも新しい跳ね橋や2基の旋回橋なども架かっている。
また、資産は現在使用されていないティウの1.1kmの旧運河を含んでおり、この区間には1番閘門と呼ばれる全長40.8m・幅5.2m・水深4.2mの閘門が残されている。
ボートリフトは運河の上流と下流の標高差66.19mを埋めるために設置されたものだ。1番リフトであるウドン=ゴウニーのボートリフトは1888年に完成したサントル運河で最初の水圧式ボートリフトで、水と船を入れたケーソンを昇降させて標高差15.40mを移動させている。2番のウドン=エムリーのボートリフト、3番のストレピ=ブラックニーのボートリフト、4番のティウのボートリフトは運河が開通した1917年に完成し、それぞれ標高差16.93mに対応している。ボートリフト自体は鋳鉄製で鉄橋のような外観をまとっているが、ウドン=ゴウニーのボートリフトではレンガ造の壁面を組み合わせて独特の外観を見せている。
ボートリフトで必要とされる水圧や動力を確保するために、1番・3番・4番のボートリフトに隣接して3棟のレンガ造のエンジン・ハウスが設けられている(2番については3番のエンジン・ハウスと共用)。隣接して蓄圧塔が立っており、ここに水を貯めて位置エネルギーを利用して圧力を加えた。これらの建物に加え、周辺には運河やボートリフトを管理するための事務棟や宿泊施設が点在している。
本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」でも推薦されていたが、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)はその価値を認めなかった。
サントル運河のボートリフトは19世紀ヨーロッパの水力工学の際立った発展を示す卓越した証である。
これらのボートリフトは運河建設における工学技術の最高峰といえるものである。
今日においてサントル運河はレジャー用途ではあるがつねに使用されており、その永続性を確保している。リフトはいまだ水力で作動しており、旋回橋やリフトといった施設は現代化されておらず、完成当時の技術によって機能している。
真正性のレベルはあらゆる面で非常に高い。リフトは建設以来、いかなる変更も加えられておらず、機械類はオリジナルの形状を保っており、完全に作動している。同様に、この産業景観の他の構成要素も小規模な技術発展による最小限の変更に留まっており、オリジナルの形状のまま保全・管理されている。レンガや石造の建物はよく管理されており、必要に応じて適切に修復されている。金属部品についても同様で、ベルギーではリベット技術が用いられていなかったため、艀(はしけ)によって損傷した際は海外に依頼して元通りに修復を行った。