チェコ・ドイツ国境に広がるエルツ山地はドイツ語でエルツゲビルゲ、チェコ語でクルシュノホリで「鉱物の山」を示す。12世紀から銀・錫(スズ)・コバルト・銅・鉄・鉛・水銀・石炭・ウランといったさまざまな鉱物の採掘が行われ、特に15~16世紀の銀や18世紀のコバルト、19~20世紀のウランについてはヨーロッパ最大規模を誇った。世界遺産の構成資産はチェコ5件、ドイツ17件の計22件で、個々の構成資産についても非常に範囲の広いものが多い。また、その内容も鉱山と採掘・精錬等の鉱業施設、水路・配水装置・発電所等の水・電力インフラ、道路・鉄道・運河等の輸送インフラ、工場や住宅地・教会堂・役所・病院・学校などを備えた周辺の都市や集落、林業・農業の関連施設や景観と多岐にわたっている。
12世紀にエルツ山地にシトー会の修道院が設立されて一帯の開拓がはじまり、山にポツリポツリと集落が築かれた。1168年頃に銀鉱床が発見され、採掘拠点としてドイツ・ザクセンの鉱山町フライベルクが発達した。神聖ローマ帝国の主要鉱山であるゴスラーのランメルスベルク鉱山(世界遺産)から多くの鉱夫が呼び寄せられたという。フライベルクは1969年に閉山するまで約800年にわたってエルツ山の中心都市としてありつづけた。一方、チェコ西部のボヘミアではクルプカで13世紀に錫の採掘がはじまり、鉱山と交易路を守るためにグラウペン城が築かれてボヘミア側の要衝となった。錫以外にも銀や銅・鉄・鉛などさまざまな金属が採掘され、15世紀に錫の枯渇やフス戦争(1419~36年)で一時衰退するものの1969年まで採掘が続けられた。
15世紀半ばにザクセンのシュネーベルクで銀鉱床が発見され、1470年頃から本格的な採掘がはじまった。15世紀末には150を超える坑道が掘られ、約14tもの銀が生産されたという。これを機にシルバー・ラッシュともいうべき鉱山ブームが巻き起こり、ザクセン側に約30、ボヘミア側に約20もの鉱山町が建設された。その中でも中心的な役割を果たしたのがザクセンのフライベルク、アンベルク、マリーエンベルク、シュネーベルク、ボヘミアのヤーヒモフといった町だ。こうした町には生活インフラの充実に伴って鉱山労働者のみならず職人・商人・芸術家・科学者らが集まり、豊かな都市へと発展していった。
15~16世紀には本格的に鉱山学・鉱物学の研究や鉱業の施設・設備の開発・改良が行われた。よく知られるのが「鉱山学の父」と呼ばれるドイツ人鉱山学・鉱物学者ゲオルク・アグリコラで、死の翌年1556年にまとめられた著書『デ・レ・メタリカ』はその後約2世紀にわたって鉱業と冶金(金属を採取・精製・加工すること)の最重要テキストとなった。アグリコラが詳細に研究を行った町のひとつがヤーヒモフ(当時はドイツ名でヨアヒムスタール)だ。銀鉱床の発見を受けてステファン・シュリック伯爵が1516年に興した町で、1518年には造幣局を設立して「ヨアヒムスターラー」と呼ばれる銀貨を鋳造した。「ターラー」はドイツ語で「谷」を意味し、当初は谷や町ごとに土地の名前を冠した○○ターラーと呼ばれる銀貨を鋳造していたが、やがて神聖ローマ帝国の帝国ターラーのように王室造幣局によって大きさ・重さ・純度をそろえた統一通貨が発行された。ここから統一通貨が「ターラー」と呼ばれるようになり、やがてアメリカやカナダ、オーストラリアなどが採用している「ドル」が誕生した。
16世紀に銀の鉱床・鉱脈が枯渇あるいは縮小する一方で、中央アメリカや南アメリカといった新世界でポトシのセロ・リコ銀山(世界遺産)のような世界的大銀山が次々と開発されて銀の価格が暴落した(価格革命)。また、宗教改革が進んで旧教=ローマ・カトリックと新教=プロテスタントによる三十年戦争(1618~48年)をはじめとする抗争が激化し、後には対抗宗教改革(反宗教改革)の揺り戻しが起きて多くのプロテスタントが移住した。加えて気候変動などもあって16~17世紀にかけて鉱業は低迷したが、17~18世紀には鉱業の再興を目指して教育活動や技術改革が推し進められた。ヤーヒモフでは1716年に職業訓練センターが設立され、技術改革によって銀からコバルト・ヒ素などの採掘に移行して鉱山町の繁栄を取り戻した。一方、フライベルクでも1765年にザクセン初となる鉱山学校が設立され、教育のみならず世界的な鉱山学・鉱物学の権威を呼び寄せて研究や技術開発を進めた。この結果、ドイツの地質学者アブラハム・ゴットロープ・ウェルナーなど一流の学者を輩出し、18~19世紀にかけて蒸気や電気を使用した新しい設備や水管理システムの導入が進んで鉱業の再興につながった。
エルツ山地にとって最重要の鉱物は銀であり、続いて錫だった。その後、16世紀にようやく金属元素であることが確認されたコバルトの重要性が増し、18世紀頃にはシュネーベルクやシンドラースヴェルクを中心にコバルト顔料についてヨーロッパ最大の生産地となった。エルツ山地のコバルト顔料はザクセンやマイセンの磁器、ヴェネツィアやボヘミアのガラス、デルフトの陶器などの彩色に使用され、遠く中国にも輸出された。18~19世紀に産業革命が進むと鉄や石炭の生産が重要視され、炭鉱の開発や製鉄所の建設なども進められたがメインストリームにはならなかった。
19世紀末~20世紀に重要性を増すのがウランだ。ローマ時代に酸化ウランは顔料として使用されていたが、18世紀後半時点でヤーヒモフは世界で唯一のウラン鉱山だった(ローマ時代の酸化ウランの採掘地は不明)。1896年にアンリ・ベクレルがヤーヒモフから出土したピッチブレンド(ウランを主とした鉱石。閃ウラン鉱)から放射線を発見し、1898年にはマリ・キュリー(キュリー夫人)がやはりヤーヒモフのピッチブレンドから放射性物質であるポロニウムとラジウムを発見した。ヤーヒモフで世界初のラジウム鉱床が発見されると早くも1906年に世界初のラジウム温泉がオープンし、1918年にはザクセン側のバート・シュレマでもラジウム温泉が開業した。第2次世界大戦でナチス=ドイツはウラン鉱石を目的にヤーヒモフを併合。戦後はソ連の管理下でウランの採掘が進められ、1965年に鉱床が枯渇するまで採掘が続けられた。この後、エルツ山地のあちらこちらでウラン鉱床の探索が行われ、ザクセンのバート・シュレマやアルベロダ、ハルテンシュタイン、アウエなどで発見された(以上は構成資産「ウラニウムの鉱業景観」に含まれている)。ウランについてはいまだに豊富な埋蔵量を保持しており、採掘が続けられている。
エルツゲビルゲ/クルシュノホリ鉱業地域はルネサンス期から現代に至るまで鉱業の技術的・科学的改革の中心としてザクセン=ボヘミアのエルツ山地の際立った役割と世界的な影響力を示す卓越した証である。鉱業史に残る重要な成果がいくつもこの地域で誕生し、他の鉱業地域へ引き継がれ、その後の発展に多大な影響を与えた。こうした成果のひとつに鉱山学校の設立があり、高度な訓練を受けたザクセン=ボヘミアの鉱山労働者が継続的に世界各地へ移住することで、鉱業技術と関連の科学技術の開発・発展・普及にきわめて重要な役割を果たした。こうした交流はエルツ山地においていまなお活発に行われている。
エルツゲビルゲ/クルシュノホリ鉱業地域は技術的・科学的・管理的・教育的・経営的・社会的な側面において、エルツ山地に関わる人々の生きた伝統・思想・信念といった無形の文化を支えていることを示す卓越した証拠を示している。組織だけでなくその階層的な管理・運営は16世紀初頭から発展したエルツ山地の鉱業の伝統を理解するうえで基礎的なものである。絶対的な支配力を持つ鉱業官僚機構が労働力を厳格に管理し、初期の資本主義的な資金調達システムに好ましい環境をもたらすという伝統が生まれた。このようなアプローチはヨーロッパ大陸のすべての鉱業地域における鉱業の経済的・法的・行政的・社会的システムに影響を与えた。
国営の鉱業組織は近代的な通貨システムの発展に多大な影響を与え、特にヤーヒモフの造幣局で1520年にはじめて鋳造された「ターラー」として知られる銀貨は多くのヨーロッパ諸国の通貨システムの基準として数世紀にわたって使用され、ドル通貨の前身となった。
エルツゲビルゲ/クルシュノホリ鉱業地域は鉱床を中心に採掘・加工施設、水管理システムと林業施設、都市・農業施設、輸送・通信インフラ等が線で結ばれる直線的な配置パターンを有し、鉱床の分布と密度・時期の違いによって形を変えつつ一貫した鉱業景観を示している。こうした配置は国家によってコントロールされ、適切に配分された。保存状態のよい鉱山施設や先端技術を有する建造物群、周辺景観は中世後期から現代に至る主要な採掘・加工技術と地上・地下両面における大規模かつ洗練された水管理システムの存在を証明している。鉱業活動によって谷と環境的に厳しい高地の双方に集落が誕生し、比類ない鉱業景観を生み出した。
本遺産は有機的に進化した鉱業関連の文化的景観であり、800年以上にわたる鉱業活動によって形成された地域の進化プロセスを証明する主要22件が構成資産となっている。チェコとドイツ両国は鉱業的文化的景観の複雑な形成プロセスにどのように貢献しているかを評価し、慎重に構成資産とバッファー・ゾーンの選抜・範囲設定を行った。結果的に各構成資産はエルツ山地のさまざまな鉱物の採掘に関する景観タイプを網羅しており、それぞれの構成資産の範囲は顕著な普遍的価値を伝えるために必要なすべての要素を含んでいる。いくつかの構成資産は保全に関して懸念材料を抱えているが、法的保護と管理計画は適切に運用されており、顕著な普遍的価値を構成する諸要素の保全は保証されている。
それぞれの構成資産はほぼ手付かずで保全されており、一部は新たな用途に最適化されているにもかかわらず高い真正性を保持している。世界遺産は有形の不動産に限られるが、本遺産はいまに息づく伝統という形で無形遺産の要素を有しており、さらに動産としての遺物や文書は構成資産の価値を証明する信頼できる情報源となっている。800年に及ぶ鉱業活動は景観に変化をもたらし、特に特定の場所における継続的な活動は技術的な適応や新システムの開発・発展等をもたらし、それらが建築物や構築物に階層的に保存されることでその歴史を留めている。
地下施設については一般的に真正性のレベルは非常に高い。地上の施設について、使用されなくなった建築物や構築物の中には取り壊されたり新たな用途に転用されたりしたものも存在する。鉱山の跡地を保存するための取り組みは100年ほど前にはじまったが、歴史的な街並みや鉱山跡地の保存キャンペーンが活発化した1990年代まで活動は貧相なものだった。そうした中でフライベルクのアカデミーで継続されている鉱業とその運用に関する研究はこれらに関する知の発展に大いに貢献している。