プロテスタントのフス派から派生したモラヴィア教会の4つの入植地、デンマークのクリスチャンスフェルド、イギリスのグレースヒル、ドイツのヘルンフート、アメリカのベスレヘムを構成資産とする物件で、モラヴィア教会の初期(ヘルンフート)、拡大期(ベスレヘム、グレースヒル)、統合期(クリスチャンスフェルド)という3つの段階を示す資産群となっている。いずれも理想都市を目指してデザインされた計画都市で、その構造や建造物群は教義である平等主義や人道主義の精神を体現している。
本遺産はまず2015年にデンマークの「モラヴィア教会の入植地クリスチャンスフェルド "Christiansfeld, a Moravian Church Settlement"」として世界遺産リストに登載され、2024年の重大な変更でグレースヒル、ヘルンフート、ベスレヘムの入植地が追加されて現在の名称となった。
モラヴィア教会はもともとローマ・カトリックを批判して1415年に火刑に処されたボヘミア(チェコ西部)の宗教改革家ヤン・フスの思想を伝える新教=プロテスタントのフス派の教団で、1457年にボヘミアのクンヴァルトで「同胞の団結」を意味するウニタス・フラトルム "Unitas Fratrum" として結成された。主にボヘミアやモラヴィア(チェコ東部)で活動を行ったことから当時は「チェコ兄弟団」や「ボヘミア兄弟団」と呼ばれていた。同地の貴族ヘルチツキーが確立した教義は非暴力・自由・平等を唱えるもので、聖職者や政府・軍の権力や商業活動・都市生活を否定し、清貧を旨として農業や手工業に励みながら厳格な信仰生活を営んだ。
チェコ兄弟団は神聖ローマ皇帝とボヘミア国王を兼ねたマクシミリアン2世やルドルフ2世らには信教の自由を認められたが、フェルディナント2世の時代になるとローマ・カトリックへの回帰とプロテスタントの弾圧がはじまり、1620年のビーラー・ホラの戦いで致命的な敗北を喫すると多くの信者が改宗するか国外に追放された。
1618~48年の三十年戦争においてドイツやボヘミア、モラヴィアで行われた戦闘や弾圧は苛烈を極めた。教団の多くの団員がドイツのザクセン地方に逃れると、ルター派の一派である敬虔主義者のニコラウス・ルートヴィヒ・フォン・ツィンツェンドルフ伯爵の保護下で活動を続け、「モラヴィア兄弟団」や「モラヴィア教会」と呼ばれた。
1722年にツィンツェンドルフ伯領に築かれたモラヴィア教会の拠点都市がヘルンフートだ。ヘルンフートはベルテルスドルフと呼ばれる町の西約2kmに新たに建設された計画都市で、中央広場であるツィンツェンドルフ広場を中心に方格設計(碁盤の目状の都市設計)の整然とした街並みを持つ。広場周辺にモラヴィア教会の中心となるフォクツホフ(政庁)やキルヒェンザール(教会ホール)、ゲマインザール(集会所)、合唱団の家(共同住宅。未婚男性用の兄弟棟や未婚女性用の姉妹棟などがあった)、ギルドハウスといった共同施設が配され、郊外に作業場や農場・墓地が建設された。建物は当時ドイツで人気を博したバロック様式でデザインされたが、清貧を旨とする教団らしく非常に簡素で、モラヴィア教会ならではの市民バロック様式が確立された。建物は平等主義に基づいてほとんど同じ大きさ・デザインで、ベースは黄色のレンガ造、屋根は切妻造の赤タイル張り、内装は白で統一され、ほとんど装飾のない機能性を追求した造りとなっている。また、領主であるニコラウス・ルートヴィヒ・フォン・ツィンツェンドルフは邸宅としてベルテルスドルフ宮殿(ツィンツェンドルフ城)を建設し、約1.5kmのシナノキの並木道でヘルンフートと結んだ。
モラヴィア教会はヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジアなど世界各地に宣教師を送り込んだ。1732年にはじめてアメリカに渡った団員がデイヴィッド・ニッチマンとレオンハード・ドーバーで、奴隷制に反対し、自ら奴隷に身を落とすことをいとわなかったことから「モラヴィアの奴隷」と呼ばれ、カリブ海の島々の奴隷を支援して宣教を行った。
ニコラウス・ルートヴィヒ・フォン・ツィンツェンドルフは1734年に自ら牧師となり、一時ザクセンを追放されたこともあってロシアやイングランドを訪ね歩き、やがてアメリカ大陸に渡った。そして1741年にデイヴィッド・ニッチマンとともにペンシルベニア州に北アメリカ初の教団入植地としてベスレヘムを建設した。入植地は谷に位置していたため中央広場を持たなかったが、一本の中央通りを中心に設計され、中央モラヴィア教会やゲマインハウス(集会所。現・モラヴィア博物館)、ベル・ハウス(現・モラヴィア女子神学校)、合唱団の家、水道施設、周辺に製粉所などの作業場や農場・墓地が配された。ここではアフリカ系の黒人やレナペ族などのネイティブ・アメリカンへの宣教を行い、彼らとともに生活を営んだ。ベスレヘムは現在においても北アメリカにおけるモラヴィア教会の拠点であり、モラヴィア・アカデミーやモラヴィア大学、各種神学校を通して活動が続けられている。
1759年にはジョン・セニックによってイギリスに入植地グレースヒルが創設された。ヘルンフートを範とする整然とした街並みを持ち、中央広場であるザ・スクエアとその西のグレースヒル・モラヴィア教会を中心に、ゲマインハウスや合唱団の家、管理人の家、牧師館、各種学校、織物などの作業場、ジャガイモなどの農場や放牧場、墓地などが建設された。未婚男性・未婚女性・未亡人のための合唱団の家や学校をはじめ年齢・性別・婚姻の有無などに応じて生活の場は厳格に分離され、モラヴィア教会の教義をよく体現したものとなっている。
デンマークでは16世紀にクリスチャン3世が宗教改革を進めてプロテスタントのルター派(ルーテル教会)に移行していた。オランダ・ザイストのモラヴィア教会入植地を見学したクリスチャン7世はその繁栄を見て受け入れを決め、入植地の建設を認めて10年間にわたる10%の免税や建物に対する10%の補助金、兵役の免除といった特権を与えた。これを受けてモラヴィア教会は土地を購入し、1773年に入植地を創設した。新しい町はクリスチャン7世の名前を取ってクリスチャンスフェルドと命名され、1773年~1830年にかけて建設が進められた。中央広場である教会広場とクリスチャンスフェルド・モラヴィア教会を中心に、ザルシュセット(ゲマインハウス)、合唱団の家、牧師館、消防署といった宗教・公共施設を集中させ、東西に延びる北のノールゲードと南のリンデゲードというふたつの幹線道路に沿って学校や店舗・宿・作業場などを配置した。当初は5軒の建物しかなかったが、1779年までに人口は279人に達し、染料工場、手袋と陶器の製造工場、タバコとデンプンの製造工場、製糸・紡績工場、製材所、パン屋、毛皮屋、川なめし屋、仕立て屋、肉屋、大工、時計職人など17の工房と4つの工場が稼働していた。19世紀半ばになると南北に走る東のコンゲンスゲードと、教会墓地に通じるキルケゴール・エルが建設され、方格設計の整然とした街並みが整備された。世界遺産の資産となっているのはクリスチャンスフェルド中西部のモラヴィア教会を中心とした歴史地区で、現在でも伝統に基づいてモラヴィア教会による自立経営と管理が続けられている。
国境を越えてまとめられたモラヴィア教会の一連の入植地群は、そのレイアウト・建造物・職人技によってモラヴィア教会の教義を伝える卓越した証拠であり、多くの建造物がいまなお当初の機能で使用されており、モラヴィア教会の活動や伝統の存続に貢献している。ヘルンフート、ベスレヘム、グレースヒル、クリスチャンスフェルドはそれぞれ有形無形の並外れた特徴を持ち、いずれの入植地や団員も孤立することなく活動的な世界的ネットワークを表現している。これらはいずれも植民の過程と宣教の活動における教会の影響力や、18世紀から19世紀初頭にかけての形成期におけるネットワークとしての教会の構造を浮き彫りにしている。そして各入植地のモラヴィア教会のコミュニティが継続的に維持されていることで、歴史的なレイアウトや建造物群はモラヴィア教会の生きた文化的伝統を体現し、より大きなモラヴィア教会コミュニティと結び付けられている。
国境を越えてまとめられたモラヴィア教会の一連の入植地群は、プロテスタントの伝統における精神的な側面とコミュニティ生活の実際的な側面の両者を兼ね備えた宗教的な都市計画の際立った例である。それぞれの建造物群はモラヴィア教会による統一的で首尾一貫した都市設計のビジョンを表現しているが、これらは「理想都市」というコンセプトに触発されたものであり、平等と社会的発展という啓蒙思想の理想を先取りしたものである。モラヴィア教会の民主的な組織は人文主義的な都市計画や共同福祉のための重要な建造物群、あるいは個々の要素間や景観環境との視覚的・機能的な結び付きの中に示されている。モラヴィア教会の形成期に設立されたこれらの入植地群は民主化の動きを象徴するものであり、すべての団員に同一の生活水準を提供し、集団の幸福を促進するものである。入植地はそれぞれ特徴的な機能を持ち、職人技の高い技量とともに、共通の様式・素材・外観(それぞれの地域的条件に合致したもの)を持つ等質的な建造物群によって統一性を示している。
本遺産の複数国による構成資産群は顕著な普遍的価値を伝えるために必要なすべての要素を含み、その重要性を示す特徴を完全に表現するのに十分な規模を有している。資産はモラヴィア教会入植地の形成期における起源・進化・世界的拡散を表す4件の構成資産で成立している。これらは継続的な宗教的遺産を代表するものであり、それぞれが共通の特徴を共有しつつ、特有の地理的・文化的到達点や都市計画の代表的なバリエーション、特定の規範的建造物、建築様式や地元の建築素材に対する地域的貢献、設立の時間的順序、他の入植地や伝道所との関係といった一連の活動を伝えている。
都市計画はわかりやすく、ほぼ手付かずで残されている。入植地内における視覚的・機能的関係や、いくつかについては周囲の景観もいまだ現存しており、その内容を読み取ることができる。いずれの入植地も放置されたり不可逆的な変化に脅かされていない。
本遺産の複数国による構成資産群は場所や配置、形状やデザイン、素材・材料、細工といった点で十分に本物であり、建造物の多くはモラヴィア教会によって使用が続けられている。こうしてモラヴィア教会のコミュニティが存続していることが一連の構成資産群の真正性の精神や印象・雰囲気を守ることに寄与しており、それぞれの入植地に活発なコミュニティが存在していることがモラヴィア教会の生きた文化的伝統の維持につながっている。
ほとんどの居住ユニットは現代の生活水準に合うよう内装が近代化されているが、できるだけ真正性を維持することが目指されている。ただ、いくつかは十分ではなく、真正性を尊重しながら歴史的な建築素材や工法を用いた修復がなされるべきであった。内装を含む今後の現代的改修においては歴史的構造の保全に特別な注意を払うべきであり、主要な要素について保全と管理のためのプログラムを策定し、適切な保全の技術と素材の使用を実現するべきである。